死についての思索

「死についての日記」を綴ります。

死についての思索(1)---その、死様・あの、世界、と、その、世界・兎の自殺・夢幻の会話・言葉の檻

死は教えられるものでも、教えるものでもない。死は死を生きた人にしか理解されない。死を生きるとは不思議であろうが、事実そのような生の形態は在る。そのような生命に自覚があるかどうかは不明である。自覚のない純粋もあれば自覚した純粋もある。自覚の前に感激があると言わねばならぬ。そのような生命の自覚は必ず感激を伴う。感激とは継承の感激であり、選ばれたる感激である。感激とは安逸でもある。安らかなる死の自覚は宿命に対して直線的である。その眼差しは一直線に死へと羨望されている。その死もまたその人間を見据える。そこには必ず特殊なる死様が成就するといわねばならぬ。その、死様、は、その、世界、となると言わねばならぬ。

死は単なる現象ではない。現象としての死はあまりにも平凡であり、陳腐である。また死は単なる事実でもない。事実としての死の宣告はほとんど何事も語っていないに等しい。死は何事かへの解答ではなく、問いの始まりである。そこから新たなる透察が始まるのである。在るものと在らぬものの立体的な把握が始まるのである。それは真に主体に迫るということであり、超個人に変貌するということである。ある正しい死は、そのようにしてある別の正しい死の可能態へとうつる。故に、死の正統は、今もまた継承されているのである。そういう人間はげんに存在している。それは、着々と、その、世界、を譲り受け、平静のままに保ち、いずれは譲り渡される、その、世界、である。橋で繋がれた、あの、世界、と、その、世界、と成る。

新しい死の発明には無限なる羨望が隠されている。そこには驚くべき意志がある。それは無の有限性における意志である。無は有限の檻の中に空間を認識した時、はじめて意志が生まれる。故に意志の親は、時間と空間である。無の大海に光が差し込んだのである。それゆえに悩める魂が生起した。それは霊感を伴った魂であり、純粋な光線を浴びた魂である。迂回はあろうが、いずれそれは燦然たる開花の約束された魂である。その開花には、開花に、近づけるものがある。それは、近づけるものとしての展開であり、有限の力動の振動であり、振動の鼓動である。

憂鬱な死は傲慢な死である。鷲のように欲望を漁り、虎のように贅沢な食を貪り食い、獅子の形相で性を放逸するなどと反省している人間は、おそらくその欲望の力は客観的に微力である。それはまるで一匹の兎が、己の奔放さを顧みて、自己を百獣の王のように錯覚する、あの湖にうつる自分自身の顔にたったひとり向き合った時の、あれである。その小さな兎は巣を飛び出したまま、夜通し徹夜して野を駆けずり回る。そして疲れ果て、満月の降り注ぐ小川の岩の上から身を投げようとする。「私はサタンの化身である」という圧倒的な自負のもとに次の瞬間、その兎は自殺を実行する。その兎の魂に巣食っていたのは単なる傲慢の種子である。だがしかし、その生命の破壊は尊い。

近代人は偉大なるもの、深淵なるものへの驚きを忘れている、とある哲学者はいう。近代人は深きものよりも鋭きものを好み、健康的なるものより病的なるものを、古典的なるものより特性的なるものを好むという。近代人は深く自ら経験することよりも批評することを、自らの経験を熱心に語るよりも、他者の経験を自らの頭で鋭く批評し得るかを誇示することを好むらしい。社会の人々がもっと激しい夢の中に没入して無邪気に生きることができたならどんなに社会全体は改善されることであろうかと。このようなものに騙されてはならないと思われる。真に夢の中に在るものは社会の在り方について論じたりしないと思われる。夢の中とは文字通り無意識的でなければならない。一直線の生命でなければならない。他者の介入はない。さりとて孤独もまた微塵もない。われわれは誰もが死の夢の中に内包されている。あらゆる対話は夢幻のようなものである。

人生観にはその根底に死生観がある。人間はおのれの最期の、その、死、を取捨選択することができる。人生一般において人間は自らの人生観をもっている。いかなる人間も自己の経験解釈を用いて人生の道の選択をおこなっているが、その最後の選択は死によって成される。多数の人間が緩慢な死を望み、緩慢な自殺を試みている。あらゆる人間の趣向は死を引き寄せる為の行いである。飲酒も喫煙も死を呼び寄せる人生の呪文である。人間の意識には至る所に死の占拠がある。死の住処を、正しい人間はその現存在において感じている。その感じ方を方法的技術的に高めてこそ、本物の死に方となるであろう。どちらにしろ、我々は単なる自然死を避けねばならぬ。全人類の、自然史的死を言い換えることが必要である。個別性を閉鎖に追い込む言葉の発明が求められる。だがしかし、人間の側からその言葉の発明は決して為されない。それは気づいた時には、あるものとして我々に与えられる。そのような仕方でしか、我々の言葉はその根本から変えることはできない。いわば言葉の檻に我々の思惟は閉じ込められている。